この木 なんの木

森の奥から時々記事が届きます。

文字の行方


 朝晩、凍えるように寒くなったり、かと思ったら暑くなったり、忙しい季節です。
 皆さん、いかがお過ごしでしょうか。

 

 

 今、僕はこの記事を書くためにPCの前に座っています。その横にはVtuberの動画があり、彼らが楽しそうに好きなことを話しています。時々僕はそれを聞いて笑ったり、あるいは聞いていなかったりします。このブログが月に1回程度の更新なのは、確実にVtuberに時間を吸われているからでしょう。

 Vtuberはその性質上、『語り』の部分が多くなります。自己紹介や交流、企画のために、その音声を使わなければなりません。勿論それは各々が話したいこと、好きなことについて自由に話せばよいのです。その話していることについて、僕たちは興味を持てば耳を傾ければいいし、見なくてもいいと思ったらブラウザを閉じてもいい。
 ただ、ある程度彼らと付き合っていくと、リアルな人間関係と同じように『その人が何が好きか』ということから『その人の好きなものを知ってみたい』と思うようになります。例えば特定のゲームが好きで、そのゲームをやる人たちを追いかけていったとしましょう。そうするといつの間にか別にそのゲームをしていなくても、その人たちの配信を観るようになっていたりします。ゲームで繋がった僕とVtuberですが、価値観や好みが合ったりして、その人自身が好きになるということが往々にしてあります。

 

 そうやってVtuberを通じて興味関心が増えていくこと、自分自身の世界が広がっていくことは本当に喜ばしいことです。これは勿論、Vtuberに限ったことではなく、Vtuberだけが持つ特権ということではありません。ただVtuberという空間の広がりの中には驚くほどたくさんの『好き』が溢れていて、それを見るだけで僕たちの生きるこの世界というのは、何と多様性に満ち溢れているのだろうと少し感動してしまいます。たくさんの人がいて、そのそれぞれが自分だけの大切なものを持っている、そしてそれを誰かに伝えたがっているという事実。
 僕はSNSもやっていますが、この事実を知っておくことが、何よりも大切だなぁとよく感じます。『ああ、この人はこんなことが好きなんだ。好きなものは違うけれど、僕と同じようにそれを大切にして、誰かと共有したいと思ってるんだ』と頭の中に前提として持っておくことは、僕が誰かとコミュニケーションを行う上での根幹となっています。 
 この『共有する』という行為はとても不思議なことです。別に誰かれ構わず、僕の大切なものについて知っておいてほしいわけではありません。往来の真ん中で拡声器を振りかざして『僕はこれが好きなんだー!』と叫びたいわけではありません。ただ僕が大好きで、ずっと見つめていたいものに対して、ちょっとだけ『それってなんかいいね』と言ってくれればいいだけなのです。ただ、こんなものがあるんだよということを知っておいてもらうだけでいい。

 

 新しいものに触れられることもさることながら、Vtuberの配信はよく『昔好きだったもの』について思い出させてくれます。僕たちの記憶は有限で、日々生きていく中で何かを忘れていきます。とても悲しいことなのですが、よく『それを好きだった』ということさえ忘れてしまいます。とても大好きだったのに、まるでそんなものなかったかのように忘れてしまうものが、いくつもありました。
 Vtuberの配信をずっと聞いていると、『昔これ大好きだったなぁ』とか『あったあった!こんなの!』みたいな経験をよくします。いわゆる懐古みたいなものなのですが、それと何かを比べたりするわけでもなく、ただ自分の中に好きだという気持ちがまた沸いてくるのです。そしてそれは新しいものを好きになる時とは違った、強い熱を持たないけれど、確かな温かみです。

 

 Vtuberに触れるようになってから大きく変わったことの一つとして、長いことしなくなっていた『文章を書く』ということが挙げられます。アイドル界隈にいた頃も小説にしろ、記事にしろ、ある程度まとまった文章を書いていた時期がありました。ただいつの間にか書かなくなっていて、書くことの楽しさや苦しさを忘れてしまっていました。Vtuberはそれを思い出させてくれました。自分が失ってしまった情熱を、思い出させてくれる存在というのが、どれほど得難いものであるかというのを最近ひしひしと感じます。
 この記事もそうです。僕の中に何かを共有したいという気持ちがふつふつと沸いてきたと同時に、「何か書いてみよう」「何か書かなくちゃ」という気持ちが沸き上がってきました。僕の中に文字が浮かび上がってきて、これを残さなくてはという気持ちになります。僕は絵を描いたり音楽を作ったり、ましてや配信をするということはできないので、『書く』という行為に共有方法が集約されます。
 そしてそうやってずっとVtuberに関してコンスタントに書いていると、ある時突然、雷に打たれたようにハッと気付くのです。『ああ、僕は書くのが好きだったんだ』と。それしかできないから、という部分を否定するものでもありませんし、そうやって書くことで感想や評価をもらったり、交流のためのツールとして使ったりすることはとても有難くて嬉しいです。それでも何かを書き終わったり、自分の文章を読み返すと、ふと好きなVtuberたちを見ている時、『僕はこのVtuberが好きなんだ』と突然思うように、『僕は書くことが好きなんだ』と自然に思われるのです。

 

 書くこと、話すこと、考えること、共有すること……これらは僕の中で明確に区別されていません。僕は書くという行為を行っている時、同時に話していますし、何かを考えることと、それを文字にすることに差異を感じません。それは僕が特にこのバーチャルでの生活に入り込んでいて、そしてそこにおける僕の言葉というのは、得てして文章によって示されるからかもしれません。呟きにしろブログにしろ創作にしろ、伝播する速度の差はあれど、それは僕の思考であり、語る言葉であり、伝えたいという気持ちそのものです。
 時折、僕は自分の書いた文章を読み直します。そうしてあの時こんなことを考えていたとか、あの時こんなことを僕は伝えたかったんだということを、その文章によって想起します。Vtuberの界隈に触れていると、情報の速さに驚いてしまい、時々洪水のようなそれに呑まれてしまう時があります。そんな中で一度考えたことを文字に落とし込み、まとまったセンテンスとして伝えようとする『書く』という行為は、僕を落ち着かせてくれます。
 自分の文章は先ほど触れたような『僕が忘れてしまった何か』をまざまざと思い出させてくれます。それはどこか後悔にも似た感情で、僕は書くという行為をこんなにも好きだったのに、いつしか忘れてしまっていたんだと申し訳ない気持ちになります。でも文字たちは偉いもので、僕がすっかり忘れてしまったとしても、もう一度僕に『君はこんなものが好きだったんだよ』と教えてくれます。


 
 おかしなものですね。僕は何か僕以外について書いている時でも、どこか僕について書いているような気持ちになります。僕は誰かに向けて書いているはずなのに、いつの間にか僕自身に向けても書いている。それは多分、『書く』ということが持つ、逃れられない機能の一つなのでしょう。そしてその機能によって、渡り鳥が最後には生まれた場所に戻ってくるように、文字たちは僕のもとにいつか帰ってくる。
 このバーチャルな空間に解き放たれた僕の文章が、僕の代わりに旅をしていって、いつしか僕のもとに帰ってくる時が確実にあります。こんなことを物を書く人以外も考えるのでしょうか。いつか自分の話した言葉が、描いた絵が、作った音楽が、自分の元へ帰ってくるような感覚を持っているのでしょうか。


 
 僕の書いた文字たちが、いつか僕の元へ帰ってきて、僕を勇気づけてくれるのを楽しみにしています。