この木 なんの木

森の奥から時々記事が届きます。

物語の輪郭


 こんにちは。久しぶりの記事になってしまいました。

 

 時々、Blogを書いたりする僕ですが、基本的にはしゃべる類人猿としてTwitterに生息しています。流れてくる呟きをつまみ食いしたり、フォロワーさんと交流をして過ごしています。Twitterをいつから始めたのかはよく覚えていませんが、色々な出会いや発見があり、今ではバーチャルな世界に生きる上では欠かせないものとなっています。
 最近、Twitterで面白いアカウントが作られているのを見つけ、ずっと眺めていました。『あやふや文庫』あやふや文庫 受付停止中 (@ayafuyabunko) | Twitterと名づけられたそのアカウントは、僕たちがタイトルを思い出せない本や漫画を、Twitter集合知によって判明させようとする試みです。
 人は記憶の奥底に「もう一度読んでみたい」と思うような本を持っているはずです。断定口調で話すのは、それだけたくさんの人々が『あやふや文庫』をフォローし、本を探し出そうとしているからです。
 かくいう僕も1件、問い合わせています。しかし現在ダイレクトメッセージを停止しているように、製作者様も想定する以上の問い合わせが来たせいか、僕の本はまだ見つける段階には入っていません。一つ一つの問合せを選別し、整え、さらに見つけ出すというのは本当に大変な作業でしょう。気長に待ちたいと思います。
 ただ、アカウントに寄せられる問い合わせを見ているだけでもとても面白いです。Twitterという不特定多数の集まるSNSらしい取り組みで、興味深く毎日拝見しています。ここ1ヶ月ほどのことですが、実に多くの人々が本を探しているとわかりました。探される書籍の多くが小説や絵本、そして漫画といった「物語」をその内に秘めるもので、「あやふや」と称する通り、どの問い合わせも手がかりは少なく、そして断片的です。手がかりの種類も統一されたものではなく、ある人は冒頭を、ある人は転換点を、ある人はクライマックスを提示します。登場人物を覚えている人もいれば、台詞が記憶に残っている人もいますし、本の装丁や大きさだけしか伝えられない人もいます。
 勿論、探しているのは最近読んだ本ではなく、遠い昔に読んだ、あるいは読むことの叶わなかった本です。どのような年齢層の人々が探しているのかは定かではありませんが、僕自身がそうであるように大体20年前くらいのものを探している人が多い印象です。それはまだネットが発達しておらず、何かを「探す」ということが個人では難しかった時代です。
 
『あやふや文庫』へ捜索を依頼される本の中には、たくさんの児童書が含まれます。幼い頃に読んだあの本──そんな言葉が良く似合う本たちです。どうして手に取ったのかはわかりません。どうして惹かれたのかも思い出せません。でも確かに僕たちの心に残っているあの本たち。静かな学校の図書館にしか存在しないようにさえ感じられる、あの本たち。
 意外にも感じられることですが、人々の印象に残るのは、例えばミステリーにおけるトリックや真犯人のような核心に迫る部分よりも、もっと枝葉末節の部分のことが多いように思われます。些細な手がかりでも捜索の一助になれば──そう思って出していらっしゃる方もいるでしょう。それにしても本当に「どうしてそんなところを」と感じるような箇所がピックアップされます。
 そしてさらに言うならば、匂いと同様に、本への郷愁もその物語だけが記憶に紐づけされるわけではありません。時間、場所、人、モノ、言葉、感情……様々な事柄と結びつき、本棚へ納められます。それは例えるならば、紙の手触りや栞の色合い、文字の滑らかさにも似たような、物語に付随するもので、僕たちはそういったことを何故か本そのものとともに、強く覚えていることがあるようです。
 この情報は残念ながら、共有しても本を探し出す決定的な証拠とはなりません。『あやふや文庫』にもたらされる手がかりよりも、もっとあやふやな思い出です。けれど、僕はそれこそが本と僕たちの間に横たわる大切な関係性だと考えています。僕たちと書物が、心と物語が、特別に繋がる時、それらを包む空気や音、風景とが複雑に絡み合って、たった一つの『本』を完成させます。

 

 僕たちの頭には(あるいは心には)、それぞれに図書室があるようです。そこに読んだ本を並べています。古い本ほど奥に詰め込まれていき、時の埃が積もっていきます。僕自身もどこに置いたのか分からない本がたくさんあります。「どこかにある」ということさえ忘れてしまっている本がたくさんあるのです。
 それでも本というのは、物語というのは驚くべきことに、ふとした時に「僕はこんなものを読んだことがある」と思い出させることがあります。それを知識とか経験とか呼ぶのは適切ではなく、「ノスタルジィ」(懐かしさ)とも呼ぶようなものです。小説、特に児童書と呼ばれるものは強いノスタルジィを内包しているような気がします。
 懐かしさは『匂い』に似ています。能動的に出力することはできず、けれど嗅げば「あの時、あの場所で嗅いだ匂いだ」と思い出すことができます。本当に忘れていたように思っている(あるいは『忘れたことさえ忘れている』)のに、ノスタルジィは僕たち一人一人の名前をずっと覚えています。どんな物語も、大人になってもずっと僕たちの心に残っています。
 本は、僕たちの中にノスタルジィを作り出します。懐かしさの源泉とは確実に本の中に存在します。僕たちは時に、見たことのない風景や音楽にノスタルジィを感じます。それはもしかしたら図書館の中の本が、僕たちを呼ぶ声かもしれません。子どもの頃に没入した世界を、まるで自分自身のもののように錯覚しているかもしれません。問い合わされる本の中にはSFやファンタジィを多く含まれています。この世のものではない、幻想的な、あるいは摩訶不思議な物語が僕たちの心に残り、ノスタルジィの種を植え付けます。

 

『あやふや文庫』の取り組みを追っている中で、僕が本当に喜ばしく思うのは、探している本が見つけ出されることです。しかしそれは検索窓に文字を打ち込んでヒットするような、あるいは書店で店員に探してもらうような邂逅とは、また趣が異なるものです。なぜならそれに答える人たちは、恐らくほぼ確実に、その本を読んだことがあるからです。探し出そうとする人と同じように、その本を自分の図書館の中に収めているのです。
「本を読む」という行為は、子どもの頃において、非常に孤独で内省的なものでした(今でもそうかもしれません。) 「昨日、あの番組見た?」と言うように、「あの本読んだ?」と言い合うような友達は僕にはいませんでした。こうやって共有することが簡単になった今ではそうではないのかもしれませんが。
 本が見つかったことと同じくらい、「この本を知っている人がいる」という事実に、無性に嬉しくなってしまうのは僕だけでしょうか。ふと、そのタイトルも知らない本のことを思い出した時、どこにもない、けれどどこかに必ず存在する『あやふや文庫』の本棚で、僕が探していた本を開いている人を見つけたのです。誰も読んだことがないような、ごくごく個人的な読書体験が、『あやふや文庫』を通じて確かに共有されることを嬉しく思います。自分だけしか覚えていないような本の風景を誰かが見たことがあるという事実を、とても素敵な奇跡のようにさえ感じます。

 

 あなたの探している本を教えてください。あなたがもう一度読みたい物語を教えてください。あなたがまた出会いたい風景を教えてください。あなたとその本が大切に抱きしめている懐かしい思い出を教えてください。
 夕焼けに沈む学校、不思議な色をした貝殻、古い木のような祖母の手、有機的な星の舟、マンションの非常階段、殴られた右頬の熱、臨海学校の幽霊、人工呼吸器の電子音、瑞々しい初恋の味、転校生のつりあがった眉、猫の配達員、初めて雪が積もった日、惑星のクッキー、官能的な耳たぶ、西瓜の種、光沢を失った歯車、図書館の夢──。
 おぼろげで、不確かで、断片的な手がかりが、ノスタルジィの源です。図書館の最奥に眠るその本の表紙を撫ぜて、物語の輪郭をなぞってみてください。きっと誰かが知っています。きっと物語はあなたを待っています。

 

 全ての物語とは、誰かに読まれるために存在しているのですから。